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東北ボランティアで学んできた事
わずか三日間(1月25日から27日)でしたが、震災から10か月後の気仙沼に行ってきました。
私の所属する新生市民クラブの議員たちで「一度は被災の現地を見て、やれることがあれば何か手伝いたい」という思いで行きました。
地元の佐藤市議に気仙沼復興協会を紹介していただき、男性軍3名(大塚、千木良、吉村)は、80歳の女性宅で牛糞の処理、女性軍2名(奥山、須賀)は、仮設住宅の交流サロンに参加しました。
気仙沼は水産加工業で有名な町ですが 津波で全てが壊滅し そこで働いていた人の8割が仕事を失ったそうです。しかし、昨年11月には漁港近くに プレハブの屋台市場を開設し、訪れる人に地元の食を味わってもらえるようにしています。
仮設の商店街もあり 少しずつ日常を取り戻しているようでしたが、まだ、3000世帯もの人々が住宅を失って、今も仮設住宅で生活しています。
気仙沼は平地が少ないので、高校の駐車場などに仮設住宅が建てられていますが、93か所に点在しているということでした。復興協会の方々は、被災者を孤立さないために、毎日、「茶会」と呼ぶ交流の場づくりをしているそうです。
皆さんのお話の中に、「避難所にいるときは、20日間風呂に入らなくても平気だった」とか、「毎食、11500食の炊き出しがあったが、1日2食しか食べられなかった」などがありました。
市職員も市議も誰かに頼ったりしないで、みんながそれぞれの人脈で食料や水、衛生面の課題に取り組んだそうです。
人口7万弱の町ですが、山の上にリアスアークという名の美術館がありました。ここでも一部天井が落ちたり、床にヒビが入ったりしていました。
そこで聞いた学芸員さんのお話です
美術作品を見せるだけが美術館の任務ではありません。被災直後からの写真を2万枚以上撮りました。現在、保存のための整理をしていますが、2013(平25)年には震災展を計画しています。
日本は地震国ですから、津波はここだけのことではありません。
5年前、特別展として「描かれた惨状―風俗画報に見る三陸大海粛の実態」展を開催しました。その時は、1カ月以上の開催期間でしたが、来館者はわずか1100名でした。ここは津波常襲の地なんですが、「何とかなる、なんとかする」という漁師町の気風があって、歴史の教訓を忘れたのです。今後は災害に向き合うための教育が大事です。
これまで、気仙沼の若者達は、「ここには何もない」といって、学業を終えると外に出ました。ですから、学校での講演では真っ先に「 何もないとか言わないでほしい。形あるものは津波に流されたけれど、生徒の皆さんには、この町の無形の財産・歴史文化を引き継ぎ、伝える人、 故郷に誇りを持つ人に育ってほしい」と、呼びかけています。
気仙沼はきっと、海とともに復興できると信じ、遠くから応援します。
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