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3.11を転機とする日本の未来に向けて 心に残った文章を紹介します。 池澤 夏樹「終わりの始まり」という4月9日朝日新聞エセーの終わりにこんな文章がありました。 「今からのことを言えば,我々は貧しくなる。それは明らかだ。 貧しさの均等配布が政治の責務。 叔母は、今は戦後と同じ雰囲気だと言う。(戦時中と同じ、ではない。我々は殺すことなくただ殺され、破壊することなくただ破壊された。)十年がかりの復興の日々が始まる。 松下竜一さんの「暗闇の思想」が40年経った今東京のマスコミで注目されているようです。先日もジャーナリストの木村元彦さんがはるばる松下洋子さんの取材にきました。暗闇の思想の一部を紹介します。 「国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民には多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理がでてくる。本当はこう言わねばならぬのに―誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。じゃあチョンマゲ時代にかえれというのかと反論がでる。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、電力の全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。(中略)いわば発展とか開発とかが、明るい未来を開く都会志向のキャッチフレーズで宣伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には「暗闇の思想」があらねばなるまい。 まず、電力がとどめなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。 冗談でなくいいたいのだが、「停電の日」をもうけていい。勤労にもレジャーにも加熱しているわが国で必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈み込み、今の明るさの文化が虚妄ではないかどうか、冷え冷えとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでならぬという予感がしている」 宮澤賢治の詩から学ぶ 「ともに生きる覚悟」を山折哲雄さん(宗教学者)が花巻出身の宮澤賢治についてNHK「こころの時代」で「雨にも負けず」の背景やデクノボーという理想像にたどりついたお話がありました。「今回の震災でよく絆という言葉が使われますが、それは人と人ですね、賢治は人間を超えた自然との絆を考えていました。死者は祖先に繋がりそれは神仏にという深々とした広がりを考えていました。賢治はいくつかの理想がありました。科学者、詩人,教師、宗教家。雨にも負けずの詩は三陸震災後の飢饉が続いたころ法華経の世界観に出会い、唯一の理解者の妹を亡くし、民衆は困窮し、人間であることが耐えられなくなって自殺も考え、自殺のギリギリの手前でできた賢治の理想像がデクノボー。 自然は生きているという感覚が、動物も人間も平等で、魂の世界で平等という感覚は万葉の自然感と重なる。目に見えないものとの絆を書いている、当時寺田寅彦の日本人の自然観は大きな影響を賢治に与えた。西欧の安定した客観視できる自然から発達した自然科学に対し、日本は自然の脅威から身を守り何万年と地震に苦しめられた天然の無常観が育つようになっていた、しかし無常観にも二種あって平家物語のような暗い無常観と国破れて山河ありのような明るい無常観とがあるが賢治は後者。{世界全体が幸福でなければ(略)新たな時代は世界が一つの意識となり}とある。福島原発の作業員の問題をアメリカはフィフチイヒーローと英雄視したが、日本人みんながこの問題を覚悟を持って考えなければ |
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